「羽音に」
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 鳥が飛び立つ羽音が聴こえた気がして、クリスは浅い眠りから覚めた。
 疲れの残る体をゆっくりと寝台の上に起こして、室内の様子を見回す。
 遅い夕食を取った後、少しだけ休息するつもりで宿屋の寝台に横になったつもりが、いつのまにか眠り込んでいたらしい。体の上には、誰かが掛けてくれた毛布が、暖かくクリスの体を包んでいた。
 それをそっと払いのけ、無人の室内から人の姿を求めて、クリスは床に降り立ち、再びあたりを見回した。先刻、鳥の羽音が聴こえてきた方向を見ると、部屋の入り口とは反対のテラスの方に、人の気配がするようだった。
 寝台に置いていた剣を取り、クリスは明かりもなく暗い室内を用心深く歩いてそちらに向かった。

 人々の住まう小さな村は木々に囲まれ、覆い尽くされるようにして隠されている。
 古くからグラスランドの人々より神秘の存在として畏怖されてきたアルマ・キナンの村に、クリスとナッシュらの一行は滞在していた。
 父の消息を追ってナッシュと共に旅立ったクリスは、この村へとたどり着いていたのだが、アルマ・キナンの「神秘」に触れる一連の流れは、ユンの生の終わりにより、一応の収束をなされたようだった。
 真なる水の紋章はその封印を解き放たれ、もはやクリスらにとっても、これ以上の滞在は意味をなさないだろう。
 夜が明けたら、この村を発つつもりだった。
 室内に灯は置かれていなかったが、その必要はなかった。満月の光が、煌々と白い光を下界に注いでいたからだ。
 テラスに出たクリスは、その光の強さに目を細めながら、こちらに気づいて振り返った男に向かって声を投げかけた。
「さっきの羽音は、フクロウのものか?」
「目が覚めたのか」
 柔らかな微笑を寄越して、ナッシュは歩み寄ってくるクリスを見つめた。その手には何事かが走り書きされた文が握られている。クリスがその文面を読み取る前に、男は素早くその手紙を懐に隠してしまった。
「あれはフクロウじゃないんだが・・・・・まあ、似たようなものかな」
「今の手紙を持ってきたというわけか」
 その問いには、はぐらかすような笑みで返された。
「明日出立するんだから、早く寝たほうがいい」
「目が冴えてしまったんだ、すぐには眠れない」
 そう返しながら、クリスは前方の深い闇に目を凝らした。しかし、月光の届かない深い森の先を見通すことは出来ず、時折吹く風にざわめく木を、数本見分けることができただけだった。
「・・・・・・ここは、ゼクセンとは何もかもが違うんだな。当たり前のことだが」
「里心が付いたのか?」
 からかう口調のナッシュを視線で一蹴して、クリスは物憂い動作で自身の銀髪を手で梳いた。
「己の狭さを感じるだけだ。銀の乙女ともてはやされて、驕りがなかったといえば、嘘になる。それをつくづく思い知らされた」
「若いねえ」
 割と整った顔立ちである、とクリスも認めざるを得ないナッシュの容貌には、今はからかいの笑みが浮かんでいる。
「自戒の念は若者特有といえ、やっばり堅いよ、あんたは」
「なんだと・・・・・・」
 むっとして言い返そうとしたクリスの言葉を遮り、ナッシュはさらに言葉を継いだ。
「余計なお節介だが、クリスみたいなのは恋の一つや二つ、経験してみるといいんだろうな」
「確かに余計なお節介だな」
「そうは言うが、銀の乙女は剣しか知らないから、未熟だとも言えるんだよ。恋愛沙汰を侮らないことだな。一度恋をするだけで、あらゆる感情を経験することができるぜ」
「私に恋愛は、必ずしも必要なものではない。家名を継ぐために子孫を残すのであれば、婿を取るべきだからな」
 クリスがそう言った時、ナッシュは皮肉っぽい笑みを、一瞬だけ見せた気がしたが、クリスがそうと気付く前に、それは消え去っていた。
「家名、か。中身のないものに囚われることは、一番愚かしいことだ、クリス。あんたがこの世に生まれてきたのは、家名があってこそではなく、男と女が愛し合った結果だ。それが全てだ」
「知った風な口を利くな」
「クリスよりは長生きしてるからな、それぐらいは分かるさ」
 その台詞で反論を封じ込めたナッシュは、そうだ、と手を叩いた。
「眠れないのなら、恋文でも書いたらどうだ?俺の鳥を貸してやるから、届けさせればいい」
「こ・・・・・・」
 思わずまじまじとナッシュを見つめてしまった。
「・・・・・・誰に書けというんだ」
「誰って、六騎士のパーシヴァル・フロイラインじゃないのか」
 今度こそ絶句して、クリスはナッシュを凝視した。顔がみるみる赤くなっていくのが、自分でも分かった。
「・・・・・・何で、パーシヴァルなんだ」
「俺と初めに会った時、一緒にイクセの村の祭りに来ていただろう?」
「あれは、ただパーシヴァルに誘われて・・・・・・」
 クリスの声は、語尾が小さく消えてしまった。今さらながらに、パーシヴァルの意を悟った気がしたからだ。
 黙りこんでしまったクリスを、ナッシュはいささか呆れ顔で見た。
「まさか、今頃気付いたのか?」
「・・・・・・」
「俺の考え通りなら、奴さんはそのつもりで誘っていたと思うんだが・・・・・・」
「それじゃあ、今まで、よく遠乗りに誘われていたのも・・・・・・」
「まあ、そうかもな」
 クリスは心の中で合点しそうになる自分を、慌てて押し留めた。本人に聞いたわけでもないのに、勝手に思い込むのはまずい、そう考えようとしたのである。
 ナッシュにはそんなクリスの心中か手に取るように分かったらしく、やれやれとでもいいたげな溜め息をついたが、何も言わなかった。
「まあ、恋文の話は冗談としても、ブラス城の連中に文を書くなら、届けさせてやるよ。俺はしばらくフレッドの所に行って来るから、戻ってきたら渡してくれればいい」
「そういえば、フレッドとリコはどうしているんだ?」
 そうナッシュに言われて、二人の姿がないことを思い出したクリスが問うと、ナッシュは途方に暮れたような、諦めの笑みを浮かべた。
「あいつら、儀式の時の敵に今度会ったら必ず一矢報いると言って、この真夜中に剣の訓練をしてるんだよ・・・・・・」

 ナッシュに紙とペンを渡され、クリスはテラスの手摺に紙を置いたまま、暫く思いを巡らせた。
 誰に出そうか。やはり自分の留守を守ってくれている、六騎士全員に宛てて出すべきだろう。
 でも・・・、と続きかける思考を、クリスは慌てて断ち切った。
 先刻のナッシュの話が頭の隅に残っていて、余計な考えが浮かびそうになったのだ。
 ナッシュにはああいったが、クリスはとりたてて家柄を重んじる気はなかったし、平民出身のパーシヴァルともこだわりなく接している。
 ただ、恋愛というものについて、自分のこととして考えるのが、クリスは不得手だというだけだ。
 今はまだ、やるべきことがあると心に刻み、そういうことには係わり合いにならないようにしてきた。
 男ばかりの騎士団の中で認められるために修練を積み、今では騎士団長にまで登りつめた自分を支えるのに精一杯で、女のとしての部分はあえて置き去りにしてきていたのである。
 ナッシュが言うような恋心などを抱いた時、今までの自分が崩れてしまう気がして、クリスは恋愛に対して及び腰なのだった。
 自分でも、薄々自覚はしていたが、やはりまだ、恋人を持つ気にはなれなかった。
 だから・・・・・・。
 クリスは首を振って息を吐き、とりとめない想いを振り払った。
 今、考えなくてもいいことだ。
 クリスは気を取り直して、ペンを握りなおした。
 そして、皆に何を伝えようかと考え込む。あまり心配を掛けず、元気にやってると伝えるには、何と書けばいいのだろう・・・・・・?

 ナッシュが再び戻ってきた時、クリスは先刻と同じように夜風に当たり、森のざわめきに耳を澄ましていた。
「書き終わったか?」
 ナッシュにそう問われ、クリスは微かに苦笑いをして首を振った。
「いや・・・・・・、やはり、手紙を送るのは止めておく」
 意外な言葉を聞き、怪訝そうな表情を浮かべたナッシュに向かって、クリスは説明した。
「文面を色々考えてみたんだが、事実を書いていると危険な場に飛び込んでばかりで、余計に心配させそうで、止めにしたんだ。それに、じきに皆のところに帰るときがくる。その時、私が元気でいれば充分だと思う。彼らは私を信頼してくれているし、私も、文など出さなくても、彼らを信頼しているから」
「そうか。まあ、クリスがそう考えるのなら、それで構わないさ」
 連中は文を貰えば、それは喜んだろうがな、という呟きは胸中で留めておいて、ナッシュは頷いた。
 そして、おもむろに上着の内側から紙片を取り出した。
「俺はカミさんに送らせてもらうよ」
「・・・・・・恋文をか?」
「その通り」
 真顔でナッシュは頷いた。
「まめに連絡を取っておかないと、後でどんな仕打ちに遭うか、知れたものじゃないからな」
「・・・・・・」
「さっきはああ言ったがな、クリス。恋はするべきでも、結婚はまだ先延ばしで充分だと思うぜ。人生の墓場に入る前に、何人でも恋人をつくるといい。銀の乙女の異名に恥じないその美貌なら、いくらでも男を釣れるって、俺が保証してやるよ」
 ナッシュの人を食った物言いに、クリスは呆れる前につい吹き出してしまった。ナッシュはほとんど初めて見るクリスの笑い顔を珍しそうに眺め、付け加えた。
「そうやって笑ってるほうが、あんたは年相応に可愛く見えるよ」
「覚えておくよ」
 まだくすくすと笑いながら、クリスはもう一度寝直す為に、ナッシュに短く挨拶を告げた。
 ナッシュが文を運ばせるための鳥を呼び寄せるため、短く口を鳴らすのを背で聞きつつ、クリスはテラスを後にした。
 ユンとの出来事が胸に重く刻み込まれているとしても、ナッシュとの会話で、幾らかは軽い気分になれたようだった。ナッシュはクリスの状態を承知の上で、ああやって韜晦してみせたのだと、クリスは分かっていた。
 再び寝床に横になり、クリスは目を閉じて、ふとパーシヴァルのことを思い浮かべた。
 それが恋と呼べるものかは判然としないにしろ、もう少しで彼に再会できるだろうと考えると、ほっとして、素直に嬉しかった。
 ナッシュが言うとおり、もっと気構えずにいられれば楽なんだが、とつらつらと考えるうち、クリスは次の旅へと向かう前の、短い眠りに落ち込んでいった・・・・・・。



・・・THE END・・・